荒木勝先生との対話第二弾 今、日本の指導者に必要なもの

第一部 国家観なき企業リーダーの問題点

2021年1月21日 於:縄文アソシエイツ

●指導者をどう生み出すのか、指導者はどう退くのか


古田 人が普段身を置いている環境は、その人が生み出す思想に影響しています。また、人の日ごろの考えや行いが、その人が今いる場の雰囲気や様子を形成しているともいえます。
 私はどの経営者にお会いするときでも、必ず先方を訪問するようにしています。会社を訪問した場合、基本的には応接室に通されます。しかし、話の流れの中でチャンスが訪れたら、「いつも執務しておられる社長室を見せていただけませんか」と尋ねるようにしています。
 その方が普段過ごしている場所を目にしてみることで、その方のおっしゃっていることがより立体的に理解できる気がするからです。

 イトーヨーカドーの伊藤雅敏名誉会長は、店の駐車場や駐輪場を見ただけで、その店の売上がだいたいわかるとおっしゃっていました。一歩店に入って、商品の並べ方や店員の動きをみれば、店長の力量がどの程度のものであるかすぐにわかったといいます。
 似たような話は、教育界でも聞いたことがあります。教育界でずっとキャリアを積んできた人間なら、校門をくぐれば校長の出来がどれくらいかわかるそうです。
 荒木先生が提唱されている「日本型リベラルアーツ」には、直観、直知というものが含まれますが、それが具体的な場面として現れるのは、こんなケースではないかと思っています。

 私は今回、荒木先生との対話シリーズを通して、「どうすれば優れた指導者を生み出すことができるのか」ということを追究していきたいと考えています。縄文アソシエイツとしては、「企業経営者」ということになりますが。
 そもそも指導者とはどういう形で生み出されるものなのか。
 本人の意思、フォロワーたちの意識はどうあるべきなのか。
 指導者は何を身につけることで、その責任を果たすのか。
 指導者の成長・成熟のプロセスでは何が必要か。
 フォロワーは指導者に何を期待すべきなのか。
 ――などを明らかにしていきたい。

 そして、もう一つ触れておきたいことがあります。
 それは、指導者の交代の問題、いわゆる「出処進退」です。じつは、これに関して現代の日本社会はしっかりした考え方を持たないために、あちこちでドタバタ劇が起こっているような気がします。
 指導者の交代についての哲学がないと、よい指導者を生み出すというサイクルになりません。日本社会が新しい指導者を輩出するにあたって、そこが弱点になっていると思います。
 いかに後継者を育て、いつどのようにバトンタッチしていくのか――そこまで明示しないと、これからの日本の指導者論は成り立たないのです。

 現状は、個々の指導者の判断にゆだねられている状態です。言い方は悪いですが、個人の趣味のようなところもある。
 収益性を高めるとか、新分野を手がけるといった経営改革、事業イノベーションは経営者として当たり前の話であって、後継者を育ててこそ指導者の職責を果たしたことになるはずです。
 自らが後継者を育てることなく、後先も顧みず、ただ悪化する事業環境を乗り切るためだけに外部人材に頼るというやり方は無責任の極みです。

 指導者をどう生み出すのかという問題と、指導者がどう退いていくのかという問題。
 それらを考えるうえで、われわれはその根底に何を持っていなければならないのか。西洋でいう聖書、中東・アラブでいうコーランのような思想的バックグラウンドを、われわれ日本人はどこに求めればよいのか。
 その一つのモデルとしての「日本型リベラルアーツ」について、これからの議論で掘り下げてゆきたいと考えています。


●国の存立があってこそ、企業は存在できる


荒木 書店には様々な経営者論が並んでいます。中には日本の経済界で重要な地位にある方の書かれた本もあります。
 その中の一冊に、こんなことが書かれていました。
――いま世界ではすさまじい勢いでデジタルテクノロジーが進化している。もはや日本がこれまでにやってきた経営スタイルでは対応できない。経営トップに求められる資質も大きく変わっている。社長の選び方を変えなければ、日本企業はさらに大きく立ち遅れてしまうだろう。
 企業経営という観点に立てば、ある意味でごもっともなことでしょう。
 従来の日本に多い、現場の下積みからスタートした叩き上げの経営者ではダメだという考え方です。最初からある程度「できる人物」をピックアップし、海外などで厳しい経験を積ませ、特別に経営を学ばせるべきだといいます。また、経営トップはプロパーの取締役の中から選ぶのではなくて、むしろその企業とは違う経歴を持った社外から選ぶのもいいと。社長の選考も、外部の人材が多数を占める指名委員会で選任するべきだと。そうすれば、下積みのたたき上げの人たちとは違う、グローバルな視野を持った人物をトップにすることができるというのです。

 私には、どうしても納得できないことがあります。そこには、グローバル社会、デジタルトランスフォーメーションの波の中で、一企業がどう生き延びるかという観点しかありません。経済界の要職にある方が、なぜ日本国全体の経済ポテンシャルをどう上げていくのかという指摘をされないのでしょうか。
 企業の生き残りの指標として掲げられているのは、自社の利益です。利益の出るところと出ないところを、いかにうまく織り交ぜながら経営を進めるかという視点で貫かれています。

 私はここに大きな疑問を抱きます。果たしてそれが、実際にグローバル社会で勝ち残る企業の道なのかということです。
 たとえばGAFAにしても、BATJ(バイドゥ、アリババ、テンセント、JDドットコム)にしても、国家のしくみやサポートを抜きに、事業が成立するはずはありません。
 いまGAFAに対してEUが抵抗しています。EUの市民権や、EUの企業の自由競争を守るために、税金をかけるなどしているのです。EUという国家の連合体ですら、そういうことをしているのに、一国として単独で世界と向き合わねばならない日本が、どうして国民経済全体の利益という観点に立ってものを考えないのでしょうか。
 グローバルな競争とはいっても、実際には国家という一つの法体系の中での保護の下で活動しています。それを抜きにしてはどんな企業も成り立ちません。中国は、国家が全面的にバックアップして情報産業を育てました。アメリカはそこまで立ち入ったことはしていませんが、それでも情報の独占を許しているからこそ、GAFAは事業を行えるのです。
 つまり、日本で「グローバル」を掲げる経営者たちは、ほんとうの企業の競争についての冷静な認識すら失っているのではないかということです。

 電波にしても、エネルギーにしても、われわれは無から掘り出しているわけではありません。
 たとえば、空間はだれが所有しているのでしょうか。電波は空間を通して通じています。電波一つにしても、電波を発する企業体と、それを受け取る消費者との間には、空間という「中間的媒体」が必要です。それを通してしか、われわれは情報をキャッチできない。では、だれが「中間的媒体」を握っているかといえば、それは国家です。
 空間そのものには、主も主体もありません。管理する者を設定するとしたら、文明が構築してきた結論からいうと、それは国家しかありません。
 本来、空間を使うのであれば、国に対して莫大な使用料を払わなければならない。しかし実際には、空間を利用しながらその利用料を払っていません。これがいま大きな問題になっています。
 世界では、国家の管理権が及ぶのは上空のどこまでかという議論になっています。宇宙空間をだれがどのように管理するのか、まだ決まっていないので、主要国が激しく主導権争いをしているのではないでしょうか。

 国家のとらえ方は二通りあると、私はずっと言ってきました。
 一つは、権力機構、行政機構体系としての国家<State>。もう一つは、国民共同体としての国家・コモンウエルス<Commonwealth>です。後者を東洋の伝統的な言い方では「社稷(しゃしょく)」といいます。
 社稷としての国家の存在がなければ、企業も存立できません。ということは、企業のリーダーたちにとって、自分の企業の存続と合わせて、社稷=国民共同体がどう存続するかを考えるのは当然の義務なのです。
 アメリカでは、企業のリーダーと国家のリーダーが入れ替わることがしばしばあります。つまり、彼らの思考の中には、国家と企業はある種、持ちつ持たれつでなければやっていけないという認識がある。アメリカ合衆国国家という国家が崩壊してしまえば、アメリカの企業も存立しえないことを彼らは理解しています。
 Commonwealthとしてのアメリカ国家、アメリカという共同社会がどうやって存続できるのかという問題に対して関心を持たないと、グローバル企業においてもリーダーたりえないのです。
 そのような視点が、今の経済界の中にきわめて弱いのではないでしょうか。今のグローバル社会においては、Commonwealthというベース抜きに競争できないということ、その理解がない。そこに、日本企業の指導者選抜のあり方に、大きな問題があるのです。
 経済界の要職にある人ならば、自社をどう伸ばすかだけを問題にすればいいのではない。中小企業から大企業まで、日本の企業全体がこれからの世界でどう生き延びていくのか、そのことについての見識を持ち、メッセージを発信すべき立場であるはずです。そのうえで自分の企業の将来構想を提示すべきではないでしょうか。


●共同体としての国家意識をどう培うのか


古田 残念ながら、日本のリーダーには軸というか、土台がありません。だから軽いんです。1945年以降、米国から土台を与えられてきて、その中でしか考え動いてこなかった証です。とても独立国家とは言えない状況が続いてきたのです。

荒木 もし、本当に自分たちは支配されているのだとしたら、そこから独立しようという国民として、Commonwealthとしての共同意識が出てくるはずです、本来は。それがないということは、国家というものに対する意識が完全に欠落しているということです。そこに日本の企業リーダーたちの致命的な欠陥があるのではないでしょうか。

 1945年の敗戦後、日本は国家として復活します。しかしそのとき、「国民共同体」という意識まで失ってしまったことが一番の問題です。
 本来、企業の経営者は、「国民共同体としての国家をどう富ませていくのか」と、「自分の企業をどう富ませていくのか」を、両方追求しなければならないのです。そうしないと、企業自身も生き延びていけないでしょう。
 戦後に起こったさまざまな企業不祥事は、半導体の問題にしても、東芝の分割にしても、Commonwealthとしての富をどう築いていくかという観点が欠落していたから生じた問題ではないでしょうか。
 つまり、正しい企業リーダー育成のためには、そのベースとして、国とは何か、日本国家のあるべき姿とは何かということを徹底して教えるということが、原点になければなりません。
 アメリカはそれをやっています。アメリカ人の最大の拠りどころは、聖書と合衆国憲法です。なかでもアメリカ合衆国憲法を理解することが、アメリカ人の教養の一番の土台ですから、彼らは小学校から合衆国憲法を暗唱します。大学になれば、合衆国憲法の政治哲学的背景なども勉強します。レベルが高くなれば高くなるほど、深くやろうとするわけです。
 日本には、そういうところはまるでありません。これでは世界で戦えるわけがありません。

 経済学でいうと、アダム・スミスすら、まともに勉強していません。アダム・スミスの『国富論』では、分業体制で経済を育てていけば国は富むと言っています。国が富む――「Wealth of Nations」です。「Wealth of Company」ではありません。
 スミスの目のつけどころは、国=Nationの富をつくることです。「神の見えざる手」が有名ですが、彼自身は自由にゆだねるだけでいいとは言っていない。どこかで政治が出てきて、税金を集め配布することで、富をうまく吸収して国家が方向づけることがどうしても必要不可欠だと言っています。
 イギリスでは、そのためにLandowner(地主)がいるのです。なぜ地主が存立するのかといえば、分業体制のゆがみを正してバランスを取るためです。そのように持っていく役割を担っているのが地主なのです。
 だから地主には地代を払う必要がある。何も土地を独占して、既得権として地主が法外な地代を取るということではないのです。国のゆがみを正し、国の防衛体制について優れた知見を持ったリーダーを輩出しようというしくみです。
 これが、Landowner(地主)、gentlemanたちの義務なのです。ノーブレス・オブリージュも、そこから出てきます。
 オックスフォードやケンブリッジに行くと、第一次世界大戦で亡くなった卒業生たちの墓碑銘がいっぱい並んでいます。それは、彼らが地主階級として防衛の責任を負っているからなのです。
 今は金融立国になっていますが、単なる無国籍の金融帝国、金融支配ではありません。そうした伝統に裏づけられた国家です。だからオックスフォードから、タックスヘイヴンについての告発が出てくるのは当然です。
 どうすれば優れた企業経営者を生み出すことができるのか――この問いに応えるためには、まず企業経営者の「構え」を育てることが前提です。

古田 企業とか、経済とか、その切り口だけでは空論になってしまうということですね。

荒木 日本の大企業は原子力で失敗しています。多額の資金を投入して原子力開発をやりながら、まったく利益を生み出していない。むしろ持て余しているような状況です。それに対して日本は国家としてどうするのか。真剣に議論しているのでしょうか。
 その点、見習うべきはドイツです。メルケル首相が決断をしてドイツは原発廃止に舵を切りました。とはいえ、すぐには自然エネルギーに代替できないから、つなぎとしてロシアから天然ガスを輸入することになっています。
 これは一時的な措置であって、将来的には自然エネルギーに転換しなければならない。そこで大規模な洋上風力発電を考えています。しかし、それだけではエネルギー供給が不安定だから、安定供給のために水素供給設備を併設するという構想を考えているわけです。この裏づけがあって、電気自動車へのシフトを言っているのです。
 福島の原発事故があったとき、ドイツはいち早く、哲学、倫理学も含めた専門家の国民的会議を開き、サイエンスと国民の英知を集めて決断したのです。
 そうした基本的な国家のエネルギー政策があったうえで、自然エネルギー産業を育てようとしているわけです。まさにポリティカル・エコノミーです。ここでいう「ポリティカル」は政治的市民的という意味であって、社稷的といってもいいでしょう。このようなポリティカル・エコノミーとしてのリーダーを、日本の経済界はほんとうに育てようとしているのでしょうか。


●確かな精神基盤をつくる教育を


荒木 大学教育に関する問題にも触れておきます。
 今、AIとビッグ・データ時代を迎え、日本の進むべき道が模索されています。その中で、大学教育は、数理的な分野に大きくシフトしています。そして、「リベラルアーツの根本は数理的教養だ」という認識が広がりつつあるのです。
 その一点で、日本のリーダーたちがいかに誤った認識を持っているかがわかります。
 数理的な教養も、もちろん必要です。しかし、それよりも大事なのは修辞学です。修辞学とは、単に、良い文章を書くとか、演説をうまくやるための技法ではありません。修辞学とは、ポリティカル・エコノミー、すなわち国家とは何か、また社会倫理とは何かを学ぶ学問であると同時に、それを市民、国民に伝える技法を含んだ学問だからです。
 今から2300年前の古代ギリシアに始まり、近代になって、アングロサクソンの世界でその問題を正当に検証しているのがアダム・スミスです。

 アダム・スミスの代表的著作は『道徳情操論』と『国富論』です。『道徳情操論』のテーマは、国民の社会的正義感をいかに養うか、『国富論』のテーマは、いかにして国に富を蓄積するかです。
 どちらにも、貫かれているのは、Commonwealthとしての豊かな国づくりであり、その指導者をどうつくったらいいか、ということです。
 これは、ギリシア・ローマの『プルターク英雄伝』とともに、近代以降のリーダーたちの必読書なのです。
 日本では、それが継承されていません。数学や語学ばかり重視したリベラルアーツ教育なんて、まったくばかげた話です。

 なぜ『道徳情操論』がヨーロッパのリーダーたちが読むべき本としてすすめられているのでしょうか。それは、優れたリーダーとはどういうものなのかを示すためです。指導者たるもの、時には国民のために命を捨てることもあるからです。
『道徳情操論』の中で政治について言及している箇所に、「マキャベリが推奨するような政治家は単なる権力志向の人物である」という趣旨が述べられています。そうではなくて、国民大衆のために命を捨てるような政治家でなければならない、それがほんとうの知慮ある(プルーデンス:prudence 思慮深い)指導者であると、わざわざスミスが触れています。
 私たち団塊世代の時代はまだアダム・スミスを勉強する風潮があったようです。今アダム・スミスなんて経済学部でもほとんど読まれていないでしょう。『国富論』はともかく、『道徳情操論』なんてまったく知らないのではないでしょうか。
 それで一国の経済のリーダーたりえますか?と言いたいのです。

 現在、大学の豊かな資産が、「グローバル」を推し進める経済界と官界の声に押されてどんどん食いつぶされています。とくに人文系はほとんど切り崩されます。
「英語は話が通じるようにしてくれたらいい。シェイクスピアなんて読む必要はない」とまで言っている人もいます。シェイクスピアをまともに読んだことがない人が、です。
 なぜ、イギリスではシェイクスピアが読まれるのか。それは、シェイクスピアが、まさにCommonwealthのリーダーはどうあるべきか、ファミリーはどうあるべきかについて語っているからです。だから今でも、イギリスの有識者たちは、シェイクスピアを高く評価しているのです。そして、エリート教育の中にシェイクスピアの劇を入れて、子どもたちに演じさせているのです。
 それはまさに修辞学そのものです。そういうことをわれわれは理解しないといけない。それを抜きにして「読む必要はない」などと言うのは言語道断です。

古田 リーダー論を語るときに、まずその前提として、拠って立つ基盤、確かな土台が必要ですね。そういう観点で見ると、いま書店で売られているリーダー論の数々は、軽すぎて読む価値があるものは少ないでしょうね。

荒木 トヨタの「豊田綱領」にしても、三菱の「三綱領」にしても、その中には「産業報国の実を挙ぐべし」「所期奉公」と、国家の役に立ち、社会に貢献しなさいと書いてあります。
 トヨタは、豊田自動織機に始まり、その特許によって得たお金で海外を視察し、自動車の可能性に着目できたわけです。なぜ特許があるのか。それは、国家が特許権を設置しているからです。だから豊田綱領には、国家の役に立てと書いているのです。
 今日のグローバル社会の中で、日本企業が存亡の危機にあるのだとすれば、日本国民に対して各社何が貢献できるのかをゼロベースで考えてほしい。そこからしか企業再生の道はありません。一企業として裸で世界に出て競争したところで、勝ち目はありません。
 中国は国家丸抱えで企業を育成し、アメリカは国のリーダーと相談をしながら、莫大な投資をして国策として企業の存続や育成をやろうという環境を整えています。
 日本がもし世界的な環境企業をつくろうというのであれば、国の総力を挙げて取り組む必要があります。ところが、今のところそういう動きはそれほど強くなっていないのではないでしょうか。

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