荒木勝先生との対話第二弾 今、日本の指導者に必要なもの
第二部 真のリーダーを生み出すために
●独立国としての気概はどこに?
古田 企業人の問題はもちろんあります。ただ、企業人のほうには、国が守ってくれない中で、事業をやっているという感覚があると思います。
いつの頃からか、民営化とか、効率性を追求することに重きが置かれるようになり、もちろん一定の意味はありましたが、それが唯一の正義であるかのような言われ方をしてきました。本当は官民一体でないと戦えないにもかかわらず、官民一体は悪いことであるかのように言われてきました。
新自由主義がもてはやされ、国家という枠組みがあることは実はわかっているのに、あたかもないかのようにふるまうことが一番資本の収益率が高くなった時代があったのでしょう。それがいいことのように日本は思ってきました。
企業社会だけではなく、政府や国そのものがそれに乗ってしまった感があります。
国家のほうにも、国としての気構えがないのではないでしょうか。
荒木 元をたどれば、レーガンのときのアメリカが新自由主義を押し進めたわけです。それは言ってみれば、国の富を略奪して企業の収益に次々と替えていくことです。
レーガンのレーガノミックス、そのやり方を日本はそのまま引き受けました。その最も象徴的な事例が郵政民営化です。そのときに、ほんとうにCommonwealthとしての民営化のあり方とはどうあるべきか、国民生活全体の便宜や豊かさという点から見ればどうなのか、という観点での議論がなされませんでした。いま結果を見れば明らかです。国民の財産を不法行為まで犯してむしり取っていくような風潮を生んでしまった。
私たちは、戦後の政治改革そのものに大きな問題があることを直視すべきです。
古田 その原因を辿ると、よく言われるように第二次世界大戦の総括がまだされていないという点が挙げられます。われわれは独立国の気構えを持たないまま、75年やってきました。
戦後民主主義は、戦前はすべて悪く、戦後のほうがよい社会になったのだと教えてきました。しかし、1945年以前のほうが少なくとも独立国として生きていこうという気構えはあったということですね。
●誰のための官僚なのか
荒木 明治維新から1945年までは、国家の独立性、独立した意思決定があったことは確かです。ただ、その間の歴史をどう総括するかという問題があります。
つまり、それが誰のための独立性だったのかということです。そこにコモンウエルス=Commonwealthという国家観があったのか。権力機構、管理機構としての国家(State)はあったとしても、Commonwealthという形で、国民の共同体としての国を富ませるという観点がどこまであったのかは疑問です。
わかりやすい例が、地主制の解体です。第二次世界大戦中に、自作農の育成政策は少し出てきますが、根本的には自らの力で地主制を解決できませんでした。
地主制を解体してはじめて日本は国内市場を豊かにすることができたのですが、それは結局、敗戦後の占領軍による解体を待つしかありませんでした。
なぜアメリカ占領軍が地主制の解体をやったかといえば、アメリカ自身の国家観に基づいて自作農の育成を考えたからではないでしょうか。アメリカは、「大草原の小さな家」のように、広大な西部の土地を開拓し自作農を育成しました。それがアメリカの膨大な国内市場をつくる原点になったのです。アメリカにとって本当の民主主義とはそこにあるので、日本も同じようにしようとしたのではないでしょうか。
自作農の育成が国内市場を豊かにすることは、日本のリーダーたちもわかっていました。わかっていたけれども、自ら身を切る改革をしなかったのです。もし身を切る改革をして、国内市場を豊かにしていれば、場合によっては満州に行かなくてもすんだかもしれません。
戦前の日本にとって、国とは何だったのでしょう。Commonwealthであったのだろうか、それとも、権力機構体であったのだろうか。
これはじつは、中国の帝国を理解するうえでも重要な概念です。
中国の歴史をよく見てみると、中国という国家にも二つの国家概念があることがわかります。宗廟(そうびょう)と社稷(しゃしょく)です。宗廟とは、一族郎党の先祖の霊を祭る場です。社稷とは、土地や五穀の神々を祭る場であり、そこから国民、国土一般を意味する言葉になったのです。
中国の皇帝たちは、自分の先祖だけではなく、中国国家全体の民のため社稷の神々も祭っています。
つまり中国の官僚の中にも、皇帝のために役立つという官僚と、社稷のために一身をささげるという官僚がいて、双方がつねに争ってきたのです。最近『政治の衰退』という大著を出版したフランシス・フクヤマの中国理解は、皇帝のための巨大な官僚国家、即ち家産官僚国家が中国の国家の核心ととらえていますが、それは一面的な見方です。
戦前の日本の官僚にも、両方ありました。しかし、どこかで日本国のコモンウエルス=社稷のために奉仕する官僚が、日本国の一部の権力掌握者のための官僚になったのではないでしょうか。
軍隊も国法上は、言うまでもなく国家の軍隊でありましたが、、国体=天皇という理解の下、天皇の軍隊のようになって皇軍と言われるようになっていきます。軍隊の統制権力の混乱も生じてきました。
満州国ができたとき、日本の官僚たちも満州に渡ります。かの地で何が起こったのでしょうか。満州国に渡る日本人開拓民を満州の北部に配置しながら、彼等の安全を確保せず、敗戦の際には、日本の高級官僚、高級軍人たちとその家族は、満州にいる大勢の日本国民の安全を確保することなく、早々に帰国したと言われています。
なぜそうなるのかというと、高級軍人、高級官僚は、自らを、日本の国民共同体たる日本国家の奉仕者(官僚)ではなく、国家権力の奉仕者(官僚)として意識していたからではないでしょうか。
日本の敗北でほんとうに反省しなければならないのはこの点です。自分たち官僚は、軍隊・行政機構を問わず、何のための官僚なのか、日本の国民共同体たる社稷の官僚なのか――官僚は自ら問い質さなければなりません。
もし日本の国民共同体たる社稷としての国家の官僚という意識が明確であったならば、自らが帰還する前に、満州にソ連軍がやってくることがわかった時点で、いちばん北に屯田兵のような状態で、また無防備な防衛拠点としておかれている貧しい開拓農民たちの帰還を急がせ、官僚と軍隊の指導者たちは最後まで残らなければならないでしょう。
そういう反省をどこかで公式に、また明確に聞いたことがあるでしょうか。東京裁判に対する批判はよく耳にします。確かに東京裁判に対するリアルな認識は必要ですが、戦前の日本の官僚についての自己批判が弱いように思われます。
●「エリート」とは「選ばれし者」という意味
古田 最近の官僚も現政権のための官僚になっています。
荒木 そこに戦前戦後の連続性があるということです。どっちの方向を向いて仕事をしているのか、ということです。
今日の話でいえば、企業家が企業家自身の後継者の育成を間違えているだけではなくて、国家の官僚育成においても大きな欠落があるわけです。
古田 大前提がおかしいということですよね。
現代は反エリートの意識が高まり、「エリートの存在は平等主義に反する」「ノーブレス・オブリージュなど不要なものだ」とする風潮があります。
本当はエリートこそ、そういう感覚を持ってフォロワーたちの安全を守り、生命を守っていくという意識が必要なはずです。だからこそのエリートなんだという考え方が、なかなか確立できていないでいます。
荒木 エリートとは、もともと「選ばれたる者」という意味です。またアリストクラシー(aristocracy)という言葉と深い関連を持つ言葉です。ギリシア語で「アリスト」(形容詞:もっともすぐれた)の「クラシー」(力)です。
アリストクラシーを「貴族政」と訳すと、地主や由緒ある家系の金持ちを思い起こしますが、言葉の本当の意味は「もっともすぐれた人」という意味なんです。東洋的な言い方では「有徳者」です。
古田 まさに「君子」というわけですね。
荒木 正確にいうと「有徳者の統治」です。われわれは、有徳者を選ばなければならないわけです。「貴族政」よりも「有徳者政」ですね。
古田 エリートを育てることに関して、ほんとうの腹落ちをだれもしていないまま議論が進んでいるのが今の状況です。
かならずどこかで「エリートはよくないものだ」といった話が、官僚OBなど本来エリートであるはずの人たちからも出てきます。
官僚の上層部も、経済界のトップも、また当然ですが、政治家たちもエリートなんです。だから自覚をもってやってほしいと私は思うのですが。
●共同体意識の欠けた、空虚なグローバル感覚
荒木 これまでの日本企業を育ててきた人たち、現場のたたき上げの優れた人たちを排除してしまい、数理的な判断ができるというだけで、根無し草のような人物を社長に選ぼうという流れを、経済界のトップにいる人たちがつくっていることを、とても残念に思います。
彼らが一番見落としているのは、企業とはだれのものかという観点です。これまで、日本の経営トップが現場の工場に行き、みんなと一緒に汗を流すということをしていたのは、「会社とは、まずはその企業の人たちのためのものなのだ」ということを学ばせる機会だったからです。そこが原点にないと、会社を売ったり、切ったり貼ったりすることが、なんの躊躇もなくできる人間になってしまいます。
古田 なんの躊躇もなくできる人間が必要だと、彼らは言っているわけです。そうしないと日本の企業は復活しないと。
私は、そういう能力も技法としてあってはいいのだけれども、ただ、冒頭申しあげたとおり、工場の門の前に立っただけで、その工場のレベルがどの程度なのかがわかる人物でなければリーダーたりえないのではないかと。若かりし頃、その工場で現場経験もしたような人が、本来リーダーになるべきではないかと。
その実践知と、現実のエリートがつながっていないというのが、現代日本の問題点です。
荒木 確かに、今われわれは厳しいグローバルな競争の中におかれているので、そちらの知見が全くないと対抗できないということはあるでしょう。それゆえ若い時から、海外の生活を体験し、知的にも海外の動向を理解する力を持たなければならないと思います。けれども、工場の中の一つひとつの事象、人々の息遣いを理解できるということを抜きにして、企業が目指すものはないんだと。そのうえでの企業の再生の方向をつくってほしい。
もう一つは、企業よりも上にあるCommonwealth、社稷という大きな視野も持ちながら、企業を経営してほしい。
しかしながら、実際には小さな視野も大きな視野も欠落した、きわめて中途半端なグローバルになっています。
今いわれているグローバルとは、国家と一体になったグローバル企業でしかありません。そのことに対する冷静な判断が、どうして欠落するのでしょうか。アメリカにおける連邦政府と企業との関係を考えてみれば、すぐに気がつくはずです。
古田 日本以外、世界中の国々は気づいているでしょう。
1970年代までは戦争経験のある人が役員にいて、本能的に共同体=Commonwealthの部分とグローバルのせめぎ合いを体感している方は日本の企業社会にもいらっしゃいました。ここ20年くらいで、そういう方はすっかりいなくなりました。
●真のリーダー「公士」を育てるために
荒木 企業には、私的な側面と公的な側面があります。そのあり方にも大きな問題があったと思います。
たとえば国からの払い下げの際に賄賂をもらうなど、国家と企業との関係には様々な問題が生じてきた歴史があります。したがって、国家と企業がつきあうときに、何か後ろめたい気持ちをぬぐうことができず、秘かに進めたりする。
企業とは本来私的なもので、国家は公的なものである――そう大学で教えられました。しかし、実態はそうではありません。それはおかしいということで、追及する動きがある。
アメリカの社会を見ると、公に人材を交流させ、事業を連携します。それをオープンにやるわけです。オープンな会議をするとか、議会に持ち込んでそれを通して法律にするなど、正々堂々と公と私がまじりあいます。
日本の場合、そこが不透明です。やっているのに、やってはいけないことになっていたりする。だから規制がすごく曖昧です。そこはやはり、企業における公的責任というものをもっと自覚する必要があります。
古田「企業における公的責任は利益を出して税金を払うことだ」というすごく単純な図式に押し込めてしまっています。
荒木 今そんなことを言っていられる時代ではありません。企業活動と国民の生活は密接に結びついています。企業活動自体が、公的なタスクという状況もめずらしくはありません。そういう場合はテーブルをつくってオープンな議論をし、きちんと情報公開をやるべき時代が来たのだと思います。その覚悟がないのです。
古田 いま、公的な仕事と企業がやる仕事は、分けることがむずかしい時代を迎えています。両者は不可分なのです。
その中で、人材はどう動いているかといえば、優秀な若者は東大にすら行かず、いきなりアメリカに行ってしまいます。レベルの高い人が官僚にならない時代なんです。
30代、40代のキャリア官僚よりも、ビジネスマンのほうがレベルが高い。その中でも、ひと昔前まで優秀な人は大企業にいましたが、いまはベンチャーにいます。
若い人は本能的に感覚が鋭いから、だめなところには向かいません。本当に優秀な人は、ある時代から官僚にならなくなり、大企業から出ていくようになり、今は最初から大企業には行きません。若者たちの就業構造がそう変化している。
これから大企業をどう救うかとか、官僚機構のレベルを高くするには、最初の試験だけではダメなんです。局長、課長クラスの3分の1はビジネス経験のある人にするくらいの変革を断行する必要があるのではないかと。
逆に、優秀な官僚の中にも民間企業で頑張れる人はいます。官民の人材の交流をもっと活発にすべきです。アメリカでは現にそれが行われています。
どこの社会でもエリートの数は少ないし、だれもが指導者になれるわけではありません。少なくともそういう優秀な人たちは、企業社会でも官庁でも、どこでも活躍してもらえるようにしなければならないのです。
そのベースは、Commonwealthに対してどこまでできるのかということだと思います。
荒木 そのためには、小中高大の教育を通して、国の重みというもの、単にState、官僚機構、権力機構ではなくて、Commonwealthとしての国が必要不可欠であり、そこにはリーダー=アリストクラシーが必要なのだという認識を育てることが大切です。
Commonwealth=社稷と、リーダー=アリストクラシー、その二点です。
もっとも、リーダーという言葉は軽いところが問題です。何か新しい言葉をつくる必要を感じます。
たとえば、『荀子』の中に「公士」という言葉があります。国の仕事をやり、公のために尽くす人のことです。「公士」――これがアリストクラシーなんだと。たとえば、そういう共通認識をまずつくる必要があるのではないでしょうか。
それができれば、民間であろうと役人であろうと、同じ日本のCommonwealthの代表です。そして、Commonwealthに対して責任を持とうじゃないかと。そういう呼びかけを、われわれはしたいと思っています。
(完)