荒木勝先生との対話 第二弾 今、日本の指導者に必要なもの

◇随聞記――荒木勝先生に学ぶ日本のリーダーに必要な資質

今回、荒木勝先生と古田英明会長の対談にライターとして陪席しました。
以下の文章は、対談後の質疑応答を通して、私が荒木先生の言葉を受けて記したものです。内容は荒木先生のお話に基づいていますが、文責は私にあります。(若林邦秀)



●国家観なき企業の危機


「国家」には、2通りのとらえ方があります。一つは、統治機構、権力機構としての国家です。英語の「State」(ステイト)に当たります。もう一つは、国民共同体としての国家、英語でいう「Commonwealth」(コモンウェルス)です。
 1945年の敗戦によって、統治機構としての日本国家はかろうじて存続し、その後復興を遂げましたが、コモンウェルスとしての日本国、国民共同体としての国という意識を失ってしまったことで、企業経営・企業統治においても今日さまざまな問題を引き起こしています。
 たとえば、グローバル社会の中でいかにして企業が生き残るかを考えたとき、利益などの計数的な指標以上の経営判断の基準を持たないために、共同体としての日本の価値や日本国民の幸福を度外視した経営判断をしてしまう可能性があることです。
 旧来の日本的価値観の中にどっぷりと浸かっていてはグローバル社会に対応できないというのは事実でしょう。かといって共同体としての日本の利益や日本国民の幸福を、企業の生き残り、価値向上のために犠牲にするという選択があってよいのでしょうか。
 他国のグローバル企業は、“グローバル”とはいえ、じつは自社のベースに自国の精神文化やコモンウェルスとしての価値があることを知っています。それを失えば、企業は自社の存立する源から切り離され、“グローバル”という観念の世界に浮遊するしかなくなります。そのような意味で、日本企業はいま、存立の危機にあるのです。


●私企業にも「公」の役割と責任がある


 企業の公的責任とは何でしょうか。雇用の創出、地域への貢献、コンプライアンス、サスティナビリティなど、さまざまな考え方・とらえ方があります。あるいは、「利益を出して税金を納めることだ」とシンプルに考える向きもあります。
「企業は規模の拡大を目指し、ひたすら利益を追求すれば、その先に豊かな社会、幸福な暮らしが実現する」という、かつてのセオリーはもはや通用しなくなりました。利益を最大化するための経営戦略として、コンプライアンスやサスティナビリティに取り組むという次元では、いま人類が直面している環境危機を乗り越えることはできません。
 私企業という従来の枠を超えて、日本という「公」の存在の一員として何ができるのか、何をするべきなのかが問われる時代になっています。私企業であるか公的機関であるかにかかわらず、日本という「公」(統治機構<ステイト>ではなく、国民共同体<コモンウェルス>としての日本)に対する役割を考え、責任を果たすべき時を迎えています。


●リーダーが背負うものとは


 企業のリーダーは、自社を豊かにすると同時に、コモンウェルスを豊かにすることに責任を持つ――そのような意識の深化が求められる時代になっています。
 近代経済学の祖といわれるアダム・スミス(1723~1790)が説いたのも、単なる分業による効率化、自由競争の推奨ではなく、「国民共同体たるコモンウェルスをいかに豊かにするか」(『国富論』)であり、そのベースにあったのは「コモンウェルスの中でいかによく生きるか」(『道徳情操論』)でした。経済活動の根源にあるものは何なのか、私たちはアダム・スミスからそのことを学ぶべきです。
 スミスの提唱する分業によって生産力は飛躍的に向上しますが、同時に社会にはさまざまな歪みが生じました。イギリスでその歪みを是正する役割を担ったのが、Landowner(地主)です。Landownerは、土地を独占して私腹を肥やすのではなく、地代の徴収と再配分を通して国(コモンウェルス)の経済のバランスをとりました。同時に、自らの土地=国土を防衛するための見識と責任を持ちました。彼らは、ジェントルマン(gentleman)と呼ばれる18~19世紀のイギリスの支配階層です。自ら生産活動に携わることはなく、平時は政治や文化活動に専心できる立場でしたが、いざ非常時(戦争)になれば、身命をなげうってコモンウェルスを守りました。そのあり方に、人々は敬意を表したのです。
 社会制度も時代背景も、現代の日本とは異なりますが、その精神、心身の「構え」が、今の日本のリーダーにも必要です。

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