荒木勝先生との対話対話集を読み解く

〜縄文人がアリストテレスに出会った?!〜

2021年7月11日 村田英美

●テーマ


リーダーを育てるための「日本型リベラルアーツ」とは。
 コロナ禍という未曾有の変革の時期にあたり今後、グローバルに活躍をする日本企業、日本人ビジネスパーソン、ビジネスリーダーの持つべき礎は何だろうか?
 古代ギリシャの知恵を活かした日本型東洋型のリベラルアーツの可能性を日本のアリストテレス研究の学徒(と謙遜される)、荒木先生と語る。

●初めに


 リベラルアーツの前提として、荒木先生は以下の三点を重要なポイントと指摘する。
1)ヨーロッパのリーダー教育には、人間として「聖書」、政治的指導者、王の教育のための人物論としては「プルータク英雄伝」があるとのこと。
2)一方、日本の精神的な礎、リーダーとして知るべきは、「武士道」「ラフカディオハーン」そして「聖徳太子」を挙げる。
 しかし、読むべき、知るべき書籍、事物だけでなく、大切なことは
3)言語を超えたコミュニケーションの成立が重要であると説く。また、コミュニケーションを支えるものとして大切なのは直観であるとも指摘する。
 例えば、漢字の「誠」は「言が成る」こと、誠心誠意はコミュニケーションが成立するという意味である。「言が成る」とは「この人はわかる人だ」と言葉を通してわかるという意味でもある。「直観」の重要性、その直観を支える体験であり、人間と人間との共感と共観も重視したい。

●現代における国家と企業のあり方


「日本型リベラルアーツ」を考えるために、現代における国家観、そして企業との関わり方を考える。
1)企業の存在理由とは何か?を知るために、リーダーが集団のあり方を考える「日本型リベラルアーツ」が必要になる。
 企業が存在することの意味は、人を育てることを通じ、集団の中でどのような人が「祝福」(後述の注記参照)されるのかを明示することが必要でもある。あるべき国家観、企業観、家族観の共有がなければいけない。日本型リベラルアーツは机上で学ぶヨーロッパ的なリベラルアーツではなく、身体と結びついた知恵(身体知)である。人間としてふさわしい所作を身につける身体的な教育が重要。非エリートの立場をよく理解して身体知として落とし込んだ人間がリーダーになることを求められるゆえに「日本型」と冠する。
2)国の存立があって企業は存在する
 企業にも国民経済全体を考える視点が必要であり、全体の経済ポテンシャルをどう上げていくかという観点がグローバル社会で勝ち残る企業の道である。GAFAや中国のBATIは国家の仕組みやサポート抜きに事業が成立するはずはない。
 国家には二通りの捉え方がある。
 <State>・・・権力機構、行政機構体系としての国家。
 <Commonwealth>・・・国民共同体としての国家・コモンウエルス。東洋の伝統的な言い方では「社稷」。
 社稷としての国家存在がなければ、企業も存立できない。企業リーダーも企業存続と合わせ、社稷=国民共同体がどう存続するかを考えるのは当然の義務。
3)共同体としての国家意識をどう培うか。
 戦後日本に欠落するのが国家意識。Commonwealthとしての共同体意識がないことは国家というものに対する意識が完全に欠落している事になる。敗戦後、日本は「国民共同体」という意識まで失ってしまったことが一番の問題。戦後に起こった企業不祥事、半導体の問題など、Commonwealthとしての富をどう築いていくかという観点が欠落していたからではないか。
 経済学で言えば、スミスは国=Nationの富に目をつけた。分業体制のゆがみを正すのが地主という階級であった。地主に地代を払い、国のゆがみを正し、国の防衛体制について優れた知見を持ったリーダーを輩出する仕組みがあり、地主階級が防衛の責任を負っていた。
 今、見習うべきはドイツ。原発廃止に舵を切り、つなぎとしてロシアから天然ガスを輸入する。将来的には大規模な洋上風力発電を考え、安定供給のために水素供給設備を併設する構想。その上で、電気自動車へのシフト。ドイツは福島原発事故の時にサイエンスとしての国民の英知を集めて決断した。国家のエネルギー政策の上で、自然エネルギー産業を育てようとしている。まさしくポリティカル・エコノミーを志向している。
4)確かな精神基盤をつくる教育を。
「修辞学」を教える重要性とはポリティカル・エコノミーである。国家とは何か、社会倫理とは何かを学ぶ学問であり、それを市民、国民に伝える技法を含んでいる。
 古代ギリシャに始まり、アングロサクソンの世界でその問題を正当に検証しているのがアダム・スミス。アダム・スミスの「道徳情操論」のテーマは国民の社会的正義感をいかに養うか、「国富論」はいかに国に富を蓄積するかである。どちらもCommonwealthとしての豊かな国づくりであり、その指導者をどう作ったらいいかということ。
5)独立国としての気概は?誰のための官僚なのか?
 同じことは官僚にも当てはまる。官僚にとっての国とは、コモンウエルスに奉仕すること。
 戦後の政治改革が大きな問題だった。明治維新から1945年までは国家の独立性、独立した意思決定があったが、誰のための独立性だったかを問わねばならない。権力機構としての国家Stateはあっても、Commonwealthとして、国民の共同体としての国を富ませるという観点があったかは疑問。
 どこかで日本国のコモンウエルス=社稷のために奉仕する官僚が日本国の一部の権力掌握者のための官僚になったのではないか?国家の軍隊が国体=天皇という理解の下、天皇の軍隊になり、皇軍と言われるようになり、軍の統率権力も混乱してきた。日本国家の奉仕者ではなく、国家権力の奉仕者としての意識だったのではないか。(1)
 反省すべきは官僚が何のための官僚なのか、日本国民共同体たる社稷の官僚なのか、自ら問いたださなければならない。

●四つの論点。


 ①リーダーが身につけるべき「修辞学」「ポリティカル・エコノミー」とは何か。
 ②修辞学を身につけた「有徳者」「公士」とは何か。
 ③リーダーの宗教性。企業経営者が社稷(土地や五穀を祭る場)のリーダーという祈る者としての存在をどう捉えるか?
 ④権威継承の知恵。出処進退の「退」、経営者、権力者が次の世代にいかに継承するか。

①「修辞学」「ポリティカル・エコノミー」とは
 1)修辞学とは何か、なぜ修辞学が必要なのか。
 修辞学は公の場で論争をする時に必要とされる技法。言論とは公開の場で行われるものという文化がヨーロッパでは2000年前から受け継がれていた。人の気持ちをいかに揺り動かすか、納得させるかという能力が求められた。また、論理的な話をするだけでなく、感性をいかに研ぎ澄ますことができるかが、もう一つの要素。
 さらに求められるのがその人の生き方には真実がなければならないということ。共同体、国家のビジョンと自分の生き方が一致しているということでなければ、説得力がない。社会的、国家的に筋の通った生き方をしていることで真実性という課題をクリアする。
 リベラルアーツの根幹は、算術、幾何、音楽、文法、論理学、天文、修辞学が挙げられるが、全ての分野に一定程度の見識が求められる。その上で、パブリックレベルで説得する必要がある。見識をもった弁論を行うために必要な学問がレトリーケー、修辞学である。そう言う意味で「修辞学」と言う言い方は本質が伝わらず、「言論学」など別の言い方で訳さないといけないのではないか。
 2)経営者に求められるポリティカル・エコノミー
 アダム・スミスは「法学と修辞学」も講義。修辞学を単に技法としての書く力、弁論術ではなく、法学・政治学・経済学と同時に修辞学を講義していたことが重要。修辞学とポリティカル・エコノミーの一体化である。
 企業経営者という切り口で見れば、一企業の利益追求だけでなく、企業観、人間観、正義論・社会倫理も含めて言行一致であることがリーダーとして求められる。更に、企業の原点である「オイコス」は家族から発展。家族成員を説得、理解してもらうのと同様に、大規模会社でも会社の方針を構成メンバーに説得することが求められる。そのために企業経営にも修辞学が求められる理由である。
 もう一つは企業活動の内容や方向性を一般従業員に説得、議論する機会があるか。社長と社員が丁々発止とやり最後に社長が締めることにならないといけない。分業で説明をするのではなく、数字の説明、未来を語るなど細かいところまで全て一人でできる人物が用いられねばならない。
 政治家も同じで財政、外交の話が一人で、できないといけない。日本ではレトリーケーの能力が政治家になるために絶対不可欠とはされていないし、国民も要求していない。
「言論学」「修辞学」というものを企業リーダーに要求して、日常的に説得、議論できるような経営を心がけることがレトリーケーの第一歩である。国、企業を育むために、それを導いていく力量を備えた人間を育成することである。
 一個人の決断力、集中力、胆力を養うのは大切だが、その能力と多くの人を説得する能力は別。人を説得する時には「国家とは何か」「人間とは何か」について語らなければならない。わかりやすく語ることができる能力も必要である。
②「公士」とは。
 1)どう言う存在か。
 儒学もアリストテレスに通じ、修辞学を習得した人を有徳者、公士(2)と言うこともできる。
 公とは「公は明を生ず」の意味で、隠し事をせず話をすることが公のもともとの意味。家でも、企業でも、国家でも公明で私心なく運用する人物が公士であり、レトリーケー(修辞学)で述べた物事をパブリックに語れる人と同じ。
 2)「公士」をどうやって生み出すのか。
  → 家族から始まり、集団で信頼されること。本物であれと言い続けること。
 人物を見る場合、大事なのは周りから信頼されているか、である。周囲に信頼グループが生まれることで、信頼グループができない人は公士ではない。利益を上げること、一個人として能力があること、なども判断の要素だが、その人の周りに信頼できる人間関係が形成されているかで人間的力量を図ることができる。
 現実はうまくいかない部分もあるし、本当の信頼関係とニセの信頼関係との揺れ戻し、繰り返しもあり、結果、帝国も崩壊することがあす。しかし、次の時代の人材をどう育てるかということであり、本物を目指そうと言い続けること、言い続ける中で本物の人同士が出会い切磋琢磨するようにすべきであろう。(3)
 3)総括のない日本の問題点
 敗戦後の問題は、破綻に対しての反省がない、レトリーケーが出てこないという表層性である。敗戦後の教育界の総括には人間形成としてのレトリーケーは全く出てこない。アメリカによる戦後大学教育システム導入は、文理融合で文系と理系を2年間はそれぞれやり、専門に進むがそれで終わり。パブリックな次元で互いにどう説得するか、それを基軸にしながら人間社会にとって最も根幹にある人間論と国家論の基礎をどう学ぶかと言うことが欠落している。(4)
③経営者に必要な「宗教性」とは。
 1)宗教についての日本人の誤解。
 一つは意図的なもの、それは国家神道を政教分離の問題から逃れさせるために「神道は宗教ではない、儀式・儀礼・習慣である」と処理したことである。戦前の大日本帝国でも信教の自由を謳いながら、天皇中心の国家神道を構築できたのは、神道が宗教でないと定義したからである。戦後もそれを引き継ぐ潮流が影響を持っているところが問題。
 もう一つは近代キリスト教的な思考の影響で、宗教とは「一つの体系を持ち、超越的な対象、神的な対象を崇拝し、またそれを体系的な典礼によって崇める集団である」と限定したことである。近代キリスト教徒にとれば、アジアに広がる祖霊信仰、自然物を神体と崇める行為は宗教ではなく魔術である。アジア人、北米インディアン、などは皆、改宗の対象者となり、一段低い人種であるとみなされた。
 宗教の本当の意味は自分を超えた畏敬できるものを敬うこと。これが宗教の元来の意味である。人間は理屈を超えて尊敬・崇敬すべきもの、自分の良心に訴えかけてくれる存在なしに生きてこなかったことを明確に自覚すべきである。
 人間にとって畏敬すべきことを畏敬するという人間理解の根幹に関わることを自覚できることが指導者の大事な資格の一つである。家族なり、企業なりの本当の共通性、共通の利益、共通善が危機になった時に自分の利益を放棄して、自分を投げ出すことができるという倫理が生まれてくるからである。
 2)リーダーは最高善=共通善=至福を追求する
 最高に優れた畏怖すべき事柄に人生をかける人がリーダーとなるべきである。幸せについて曇りなき目を持つ人が、企業あるいは国家に自分の人生をささげられる人である。
 最高位の幸せとは皆から「祝福される」という意味。賞賛は”give & take”だが、祝福は自分と相手の気持ちが通じて、その人が存在することは相手にとっても自分にとっても双方がhappyになる。(5)
 しかし、そこに自分の権力を温存すれば共通善ではなくなる。つまり、企業の共通善に自分の人生をかけることが出来る人は次期継承者を選ぶことも出来る。宗教性と幸福感とは結び付き、しっかりしていれば継承においても自己利益にしがみつくことはない。
 もちろん、現実的には高齢になり自覚が難しいことなど、様々な阻害要素もある。
④権威継承の知恵
 1)最高善とうまくつながる
 ヨーロッパや中国での最高権力の持ち合いを見ることが参考になる。
 例えば、2000年続くローマ法王と言う地位があるが、一つは独身制ということで自分の家には継承されない。もう一つは法王を越える権限の存在である。ローマ法王以上の権限を持つ文書を組織が作れる公会議がある。組織が危機的な状態に陥った時、公会議を開催し、そこで決定したことは教皇を越える権限をもつ。また、君主制なり首長制で任期を決めて交代することもある。ヨーロッパの場合、王にも終身制と選挙制がある。例えば、神聖ローマ皇帝は6~8、9人の選帝侯が協議して選ぶという人間の集団的な協議を作っていた。
 2)「シヴィック・ボディ」「ポリティ」(6)という考え方。
 イギリスでは広い意味でのコモンウエルスになる。王が堕落した時、王は最高権力者であるものの、結局、最高権威を持つのは圧倒的に多くの市民からなる体、シヴィック・ボディであるという考え方である。王政が倒れ貴族制や民主制、王を代えるなどあっても永続するのは「シヴィック・ボディ」という市民共同体であるということである。
 日本にも「シヴィック・ボディ」=家族会議という伝統的な仕組みがある。直系・傍系の家族が集まり、跡取りを決めたりする。企業にも取締役会ではなく、その企業を支えてきた御三家、御十家などという、枢密院会議のようなものがある。このような考えを制度化したのがヨーロッパにはあったわけである。
 3)日本にふさわしい権力継承のあり方
 日本の家制度を生かしながら、「シヴィック・ボディ」を日本化するという考え方もあるはず。
 江戸から明治に移行する時に、ヨーロッパの制度を勉強したが、日本が培った重要な家制度を保存する方向には行かなかった。現代に生かす知恵もあるはず。日本的なコーポレートガバナンス、あるいは東アジア的なコーポレートガバナンスの普遍性を法制的にも表面化させ、継続すべきである。
 シヴィック・ボディは「国のかたち」ではなく「国民の集団」、市民集団である。地方の名望家が代々地域のリーダーとしてやってきたことが社会の変化に従い、変わってきた。しかし、その連続性を維持しながら仕組みを作っていく必要がある。地域の要望に応じて地域の人が対応すれば、全ての富と権力が東京に集中することはない。地方にも文化的人材育成機関を作り、持続化させる、それらが国として全体的に集まってきて国の方針、方向性をするような柔軟な国づくりをする必要がある。
 そういう階級がないとリベラルアーツも育たないし、その人たちがパブリックな精神を持つと言うこと。市民の指導者と市民体がフォーラムやアゴラのような場で説得し、説得されて人間として成長する。

●最後に


 経営トップの交代は王様の交代と同じこと。リーダー(7)を作るためには、今からでも企業の中でレトリーケー(修辞学)を大事にするような中堅社員を作ることが先決ではないか?
 リーダーとは「エリート」、「選ばれし者」であり、エリートは最も優れた人、「有徳者」でもある。エリートこそがフォロワーたちの安全、生命を守るという意識が必要なはずである。そして、共同体意識の欠けた空虚なグローバル感覚ではなく、真のリーダー「公士」を育てるために、リーダーは、現場を知ること、そして企業より上にある視点を知ることである。
 ・工場の事象、人々の息遣いを理解できること抜きにして企業が目指すものはなく、その上で企業再生の方向を作って欲しい。
 ・もう一つは企業よりも上にあるCommonwealth、社稷という大きな視野も持ちながら、企業経営をして欲しい。
 企業には私的な側面と公的な側面がある。アメリカでは公に人材を交流させ、事業を連携、しかもオープンにやっている。正々堂々と公と私が混じり合う。日本の場合は不透明で規制が曖昧、企業における公的責任の自覚がもっと必要。税金を払うことが企業の責任というだけではなく、企業活動と国民生活は密接に結びついている。
 企業活動自体が公的タスクという状況もあり、オープンな議論、情報公開をやるべき時代がきている。国と民間との人材交流が進むためには、小中高大の教育を通じて、国の重み、Commonwealth=社稷が必要不可欠である。

以上

●注記


 (1)満州国の崩壊時に高級官僚、高級軍人は日本国民の安全を確保せずに、自国民への棄民的対応を取った。また、他国民への奴隷主的統治も行なった。
 (2)荀子第二巻「不苟(ふこう)篇」に見える。通士、公士、直士、愨(かく、こく)士という四つの人間像を取り上げている。
 (3)「価値ある出会い」を求めることであり、縄文アソシエイツの経営理念にも通じる。
価値ある出会いを無数に創り
すべての人が働くことの素晴らしさを実感できる
社会の実現に貢献します
 (4)マッカーサーの「日本人は12歳の少年だ」と言う発言に対し、日本人はがっかりしただけで終わる。問題はなぜ日本人が12歳の少年として彼の目に映ったか?大量の自国民の犠牲にもかかわらず、日本のリーダーはお伺いを立てる態度しか取れなかった、敗戦国のリーダーが取るスタンスではなかった。
 ギリシャ人は日常品のモノづくりをしない、それは奴隷がやること。主人がどうあるべきか、それは独立自尊の人格と家庭、地域、国家経営をすることである。このようなヨーロッパ人のアジア人に対する誤解が2000年続いて、誤解が生じたのでは。日本人の自覚が弱かったこともあり、敗戦後の総括もできずにきた。
 (5)この状態「祝福」を最高の幸せとアリストテレスは言っている。「相手が幸せになるために全力を傾けなさい」ということであり、自己犠牲であり自己の至福感である。この教育が武士道であり、世界にも日本にも受け継がれている
 (6)「市民体」「共和政体」などの訳語がある。ギリシャ語では「ポリテウマ」。
 (7)リーダーという言葉の軽さがあり、「公士」という言葉を使用した。国の仕事、公のために尽くす人。

MENU