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リーダー像のご紹介

「古典談義 ミドリムシ『論語』を学ぶ」安岡 定子×出雲 充 (株)ユーグレナ代表取締役
安岡定子事務所 代表 安岡 定子氏

プロフィール

1960年東京都生まれ。二松学舎大学文学部中国文学科卒業。陽明学者・安岡正篤の孫。
現在、「こども論語塾」の講師として全国各地で講座を開催するほか、企業やビジネスマン向けのセミナー、講演活動を行っている。『子や孫に読み聞かせたい論語』(幻冬舎)、『えんぴつで論語』『心を育てるこども論語塾』『実践 論語塾』(以上ポプラ社)、『新版 素顔の安岡正篤』『壁を乗り越える論語塾』(ともにPHP研究所)『ドラえもんはじめての論語』(小学館)など著書多数。

若手経営者はなぜ古典に惹かれるのか

安岡 どうして論語を学ぼうと思われたのですか?

出雲 ベンチャーに最も欠けているものだからです。
 ベンチャーの対極にあるものが古典です。並み居るベンチャーの中で生き残っていくためには、自分といちばん縁遠い存在に近づいていく努力が必要ではないか、そう思ったのです。
 もう一つは、海外の経営者、特にシリコンバレーの企業家たちが、古典に関心を持っているからです。中国古典を学ぶために、わざわざ日本に足を運ぶ人もいます。
 彼らの中で、いきなり「ユーグレナとは……」と言っても、なかなか話を聞いてくれません。でも、「中国古典を経営に生かしています」と言えば、とたんに興味を持ってもらえる。
 ですから、その必要もあって、いま懸命に学んでいるところです。

安岡 若い人たちの中にも古典に関心を持つ方がいらっしゃいますが、出雲社長の場合は、どのようなきっかけがあったのでしょうか。

出雲 僕たちはいちばん多感な時に、リーマンショック(2008年)と東日本大震災(2011年)を経験しました。今まで築いてきた繁栄は、全部虚構だったことが明らかになりました。「こうすれば成功する」「こうすれば幸福になれる」と信じてきたことが、すべて打ち砕かれてしまいました。
 そして、家族の絆、人とのつながり、自分が根底に持っている思い、そうしたものこそ大切にすべきだし、人生をかけて探求すべきものだと気づいたんです。あの2つの出来事が、僕たちの世代にとっては大きかったと思います。
 年輩の方は「若い奴は古典なんか面倒で、学びたいなんて思っていないだろう」と思いがちですが、そんなことはありません。僕たちの世代が拠り所を求める気持ちは切実です。古典を学ぶことに「面倒だ」という思いなんて一片もありません。

古典が持つ底力

安岡 震災前から、私は宮城県塩釜市にある剣道連盟の論語塾で講師をつとめていました。幼稚園児から中学生まで、そしてその保護者の方々が対象です。年に4、5回開催の論語塾ですが、全員でみっちり朝稽古をした後で、畳敷きの大講堂に正座して120分間、論語の素読をします。前には小さな子が並び、後ろに行くほど年齢が上の子が座ります。みんなキリッとしたよい表情でした。
 2011年3月11日にあの震災が起こり、塩釜も甚大な被害を受けました。直後の4月の論語塾は休講になりました。6月にようやく訪問し、師範の先生とは再会することができましたが、まだみんなが集まって論語塾を再開できるような状況ではありませんでした。義援金等を先生にお預けして、東京に戻りました。
 後日、子どもたちから手紙が届いたんです。それを読んだときに、私はしばらく言葉を失いました。

出雲 どんなことが書かれていたのですか?

安岡 論語で習っていた「仁」が本当にあることを感じました――という内容だったのです。
「震災当日、真っ暗になって雪が降り始めました。とても寒くて、町内の大人たちが焚火をして、みんなが自分の家にある食べ物や飲み物を持ち寄りました。そして、この人数で食べるものがこれだけだから……と、食べ物が全員に均等に行き渡るように、大人たちが相談をしていました。それを見て『仁』って本当にあるんだなと思いました」
「震災の翌日には、大阪ガスと陸上自衛隊の人が来てくれました。自分の家族でもないのに、こんなところにまで、こんなに早く助けに来てくれるなんて、すごいと思いました」
 などです。またある子は、竹刀を入れる袋に「仁遠からんや…」という論語の章句を刺繍しているそうです。竹刀を出し入れするたびに、どんな思いでその言葉を眺めているのでしょう。
 師範の先生は、「起きたことは確かに悲しい出来事だったが、自分の知らないところで、子どもたちの中で何かが変化した。子どもたちの心に大切な何かが刻み込まれたことを実感します」とおっしゃっていました。
 私もそう思います。あれだけの体験をくぐり抜け、辛抱強く生き抜いて、復興を果たそうとしているのです。何年かしたら、東北からすごい人物が出てきても不思議ではないと思っています。

困難に直面したとき、どの道を選ぶか

出雲 おっしゃる通りだと思います。平時においては、論語を読んでいる人と読んでいない人の差はそれほどなくても、本当に困ったときには、歴然とした差が現れると思います。
 同世代の仲間の中にも、「3.11」で大きく明暗が分かれたケースがあります。
 ある人は津波で家も家族も失って、失意のどん底に落ち込みました。時間がたっても立ち直れず、国や電力会社からの補償金で遊興にふけるだけです。「そんな人生でいいのか」と問いただしても、「どうせ元には戻らないんだ。何もやる気はないよ」と、自分を不幸な物語の主人公に仕立ててしまっている。
 一方で、アメリカのビジネススクールで震災のプレゼンテーションをし、被災地ツアーを組んで、世界に実状を見てもらおうと行動する仲間もいます。そして、問題意識を共有した人を集めて復興のためのソーシャルベンチャーを立ち上げているんです。
 困難に直面したとき、そこから逃げる人と、それに立ち向かう人がいます。その違いはどこから来るのか――それが僕にとって、ある意味究極の問いなのです。
 そして、その答えの一つが「古典」ではないか、というのが僕の仮説です。古典という拠り所がある人とない人との違いが、災害や病気などの困難が人生に降りかかってきたとき、乗り越えられるか否かを分けるのではないかと。

安岡 そうだと思います。
 ある保険会社の営業をしていた友人が、独立しようかどうか悩んでいました。成績はトップクラスなので、そのまま会社にいてもいいはずでしたが、あえて独立しました。
 ところが、スタート直後につまずいてしまいます。多額の損失を出して一時はどん底に落ち込みました。でも、彼はそこから立ち上がりました。そして事業を軌道に乗せて、今では順調に業績を伸ばしています。
 その彼が最初に発した言葉が、「古典を勉強していてよかった」です。どん底にいても決してあきらめなかった、じっと時機を待って次にチャレンジすることができたのは、古典の学びがあったからだ、というのです。
 経営者、とくに前例のないことに挑戦するベンチャー経営者にとって、精神的支えになるものがいかに必要か、その時に古典がどれだけ大きな力を持っているか、教えられた話です。

人間理解があってこそ生きる古典

出雲 ベンチャー経営者だけでなく、先輩経営者の皆さまも、驚くほど勉強されていますね。僕は、安岡先生の勉強会に参加させていただくまでは、世の経営者がこんな学びをされているとはまったく知りませんでした。でも、普段はそんなことはおくびにも出されません。僕たち世代も負けずに努力しないといけないと思いました。

安岡 たしかに、皆さまとても真剣ですね。
 古典が素晴らしいものだとわかっていても、それを学び続けるのは並大抵ではありません。忙しくなったときなど、優先順位を考えると、どうしても後回しにされがちです。それでも10年、20年、30年と学び続けていらっしゃいます。長く読み続けるからこそ、わかることもあるのです。
 ある方は、新社会人になったとき、「尊敬する人たちの多くが論語を読んでいるから」という理由で、論語の本を買ったのだそうです。読んでみると「なんて押しつけがましいんだ」と感じて、読むのをやめてしまいました。
 ところが20年後、40代になってから改めて目を通してみると、まったく印象が違う。「なんとよいことが書いてあるのだろう」と。やはり20年間の仕事の積み重ね、人生の積み重ねによって、物事を見る目が変化しているのですね。「真剣に学びたい」という気持ちが湧きあがってきたそうです。
 人生の歩みとともに受け取るものが変化するのが、古典の特長です。

出雲 タイミングって、本当にありますね。僕も出会いがもう少し早ければ、この素晴らしさを理解できなかったと思います。
 もう一つは、安岡先生に学ばなければ、僕はここまで論語に魅力を感じることはなかったかもしれません。先生は、時代背景や登場人物の人となりも含めてお話ししてくださいます。だから、論語がとても身近に感じられるし、自分と照らし合わせながら読み進めることができる。先生に学ぶことができて、僕は本当に幸せです。

安岡 私自身、恩師からそんな読み方を教えていただいたのです。大学時代は中国文学科にいて、テクニックとしては読めても、味わうことはできませんでした。
 30代後半になり、もう一度勉強したいと思って参加した講座で、その先生と出会いました。先生の講座では、単なる章句の解説なんてありません。そこに登場する人物の話を盛んにして下さいました。先生は「論語は人間模様だ。人物の姿が浮かび上がってこなければ、何も面白くない」とおっしゃるのです。
 私は、「これまで勉強してきたことは何だったんだろう」と思うほどの衝撃を受けました。一つひとつの章句の背景に人物がいて、読み進めるうちにお互いの関係も明らかになり、まるでドラマを見ているように、その人間模様が立ち上がってくるのです。章句の文字だけを追っていても、本当に意味するところはわかりません。人間を理解して初めて、その本質に触れることができるのだと知りました。
 その先生との出会いがなければ、私は今の仕事をしていなかったかもしれません。

触れるたびに新たな学びがあるのが古典

出雲 読む人の年齢によっても、見える景色が変わってくる。それも安岡先生から学んだことです。

安岡 ここ数年、ある会社で研修のお仕事をしています。はじめは全国の支店長を対象にした講演でしたが、その後、女性管理職向け、女性総合職向け、と対象を変えて論語のお話をさせていただいています。
 取り上げる章句はすべて同じです。説明の仕方は変えますが、「男性管理職だから」「女性の新入社員もいるから」と読む章句を変えることはしません。それはどちらに対しても失礼だと考え、一貫して同じ章句を読んできました。
 何年か続けていくと、面白いことが起こります。「総合職向け」の研修を受けた人が、昇進して「管理職向け」の研修を受けると、もう一度同じ章句に出会うことになります。すると、前回も同じ章句を読んでいたはずなのに、受け取り方が変わっていることに気がつくのです。立場が変わると、響き方、響く言葉も変化します。
 また、新入社員も支店長も同じ章句を学ぶので、論語が共通言語になります。「支店長と初めて仕事以外の話をしました」と報告してくれた方もいました。

出雲 触れるたびに新たな学びがある、それが古典なのですね。

安岡 だから2000年も残るのだと思います。
 こども論語塾に4年間通っていた子が、お父さまの転勤に伴い、海外に住むようになりました。イスラム教の子どもと友だちになりました。あるとき「なぜラマダンをするの?」と尋ねたら、「世界にはまだ飢えに苦しむ人たちがたくさんいる。その人たちに思いを寄せるのと、世界から飢えがなくなるように祈るため」と説明されたのだそうです。それを聞いて、「論語に出てくる『仁』と同じだ」と思ったといいます。
 帰国後、その子は中学受験の小論文にそのエピソードを入れて、「たとえ『仁』という言葉は使わなくても、世界には思いやりのある人がたくさんいる」という趣旨の文章を書いたそうです。お母さまは、「そんなことを言うまでに成長していてびっくりしました」とおっしゃっていました。

出雲 自分で考える力がついている証拠ですね。その年齢で、『仁』を自分の言葉で語れるのはすごいです。

安岡 はじめにお話した塩釜の剣道場でも、「以前は『小さい子の面倒を見なさい』と言い聞かせるのが指導だと思っていましたが、論語を学び始めてからは、言わなくてもおのずとできるようになりました。これが教育というものなんですね」とおっしゃっていました。
 小さいころに何に触れておくかが、決定的に重要だと、子どもたちの姿を見てつくづく感じます。過去の日本人は、そういうことを大切にし、多くの人が素養として身につけてきました。私たちもぜひ受け継いでいきたいものです。

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